思考する為のインターネット

 このコラムの執筆者:細川元

インターネットがつまらない

肌感覚として、最近のインターネットは窮屈でワクワクしない。

少なくとも僕が小学生の頃は、まだ知らない面白いことがゴロゴロ転がっている宝の山のようで、いつだって高揚感を持ってディスプレイに向かっていたと思う。少なくとも、今のネット掲示板やSNSに溢れている殺伐とした空気は流れてなかったような気がしている。

こんなことだけ言っていると「ただの懐古厨じゃないか」と思われそうで、色々と考えたりしていたのだが、先日一冊の本に出会って膝を打ったので紹介したい。

ムラ化し、速くなったインターネット世界

その一冊とは、宇野常寛の『遅いインターネット』である。

タイトルからも分かる通り、インターネットの「スピード」に着目して、現在のインターネットの問題点と今後のインターネットのあるべき姿を考えている。(考えている、というところがポイントで、単純で分かりやすい答えを書いていない。自分で考えず、答えを求める人には苦しい本である。)

僕はこの本の中で宇野が述べている「ムラ化し、速くなりすぎたインターネットでは、空気や潮目を読んで脊髄反射的にコメントを付け、拡散するだけで、自分で考える事を忘れてしまった人が多すぎる」という考えに非常に共感した。

実際、特にTwitterでは、こいつは叩いても大丈夫だという空気ができると、一斉に叩きが始まる。自分がムラの中でやらかしていないマトモな人間の側であるという安心感を得るために叩く。

テラスハウスの一件は記憶に新しいだろう。木村さんが亡くなったことで、叩くという行為は人をここまで追い詰めると分かったはずなのに、南キャンの山ちゃんへの叩きが始まるという構図は、学習能力の無さに愕然とした。

こういった思考しないインターネットの状況を解決するには、遅いインターネットを作る必要があるというのが宇野氏の主張である。(だいぶざっくりとした紹介だが、気になった人はちゃんと本を買って読もう)

僕がワクワクしていたインターネットは、自分の世界を広げ、考えさせてくれるものだったのだと思う。しかし、今のインターネットはフィルターバブルという言葉に代表されるように世界を広げてくれないし、その窮屈な世界の中での空気を読むことが目的化してしまったのだろうと思う。だから面白くない。

考えるための「道具」として

こういう面白くないインターネットの状況が目に見える形で出てきてしまっているなぁ、と感じることが最近何度かあった。

実はここからが僕の言いたいことだったりするのだが、インターネット(ここでは=Googleと考えてもらってもいいだろう)は決して「答え」を教えてくれるわけではない。

各個人が「答え」を導くための材料を見つけやすくするために整理して並べているに過ぎないのだ。

むしろ主語が大きく、断定的な物言いをしているWebページに対して、私たちは疑いの眼差しを向けなければならないと思うのだが、そういうWebページのほうがPV数が稼ぎやすく(簡単に言うと書き手も儲かりやすく)、手っ取り早く分かりやすい「答え」を提示してくれるため、考える労を取りたくない人々はこちらに流れる。

すると何が起きるか。

問題に直面したとき、考えるのではなく検索して、検索上位の1~3つくらいを適当にかじり、そこに書いてある「答え」を安易に飲み込むようになり、目の前で起こっている事や生身の人間を見なくなる(もしくは見えなくなるのかもしれない)。

その結果、目の前の問題は解決されない。それどころか、問題を取り違えて、誤った手を打つことになる。問題解決のためだと信じて労力をかけ、問題状況を更に悪くする。

どれだけこういったことを言っても(宗教という幻想が今でも多くの人にとって必要とされていることから分かるように)一定数の人間は安易に手に入る「答え」に流れるのは仕方がないというか、諦めているのだが、デザインをする人間がそういう姿勢・態度である場合は致命的である。

なぜなら、目の前にある一般化できない個別の現状を把握すること、想定ユーザーの行動を見ること、気持ちを想像することができないのだから。

配属される研究室が決まれば、プロジェクトや卒業研究に取り組んでいくことになるだろう。そのとき、間違ってもまとめサイトを適当にかいつまんでリサーチしたと言わないようにしてもらいたい。

インターネットは考えるための「道具」なのだ。そこに「答え」はない。

おまけ

インターネットのフィルターを超えるためにはどうしようか、という本。

東浩紀『弱いつながり』