言葉を扱って思うこと

 このコラムの執筆者:細川元

院生という立場上、修士論文を書くことはもちろん、TAや研究室のあれこれで「言葉」を今まで以上に「扱う」機会が増えた。
そこで感じていることをパラパラと書いておこうと思う。少しでも意識的に言葉を扱うことが、きっと就職活動や卒業研究の助けになると思う。

言葉にするということは切り分けるということ

言葉は人類の偉大な発明である。
残念なことに私達の思考は言葉なしには殆ど出来ない。本能のままに動くことしかできなくなってしまうのだ。
そのため一括りにはできないがよくあるパターンとして、本を読まない→語彙が少ない→思考が貧弱、というようなことが起こる。
私達人類は言葉を持ったことで、思考と思考の伝達ができるようになり、理性という武器を持つことで、自称「万物の霊長」の地位を獲得している。

そんな言葉であるが、言葉にするということは、表現したい何かを切り分け、音や記号を与えて共通認識を作るということである。(異議は積極的に認める。)

その結果、以下に示す2つの性質を言葉は持ってしまう。

①切り落とされる(無視されてしまう)ことが出てくるという性質
②代替可能であるという性質

この2点を意識して言葉を扱うだけで、見えてくる景色がきっとあるだろう。

①切り落とされる(無視されてしまう)ことが出てくるという性質

モノでも、コトでも、感情でも、概念でも、言葉にするためには「切り分ける」必要がある。

例えば「りんご」と聞いてあなたはどんなものを想像するだろうか。
ある人は農園で木に実った赤いりんごを想像し、ある人は緩衝材に包まれてスーパーに並んだりんごを想像しただろう。また、ある人は皮が剥かれ、櫛切りになり、皿に盛られたりんごを想像したかもしれない。

つまり、この「りんご」という単語からは、りんごの置かれた状況や背景は切り落とされている。
自らが意図したことを正しく伝えるためには、何が無視されているかを意識する必要があるだろう。状況や背景が違えば全く違う意味を持ってしまうこともあるのだ。

「誤解を与えてしまったのなら申し訳ない」などと受け手に責任をなすりつける本邦の政治家のような醜態をさらさないためにも、相手に誤解を与える余地がないような表現を目指したい。

デザインの関係で言えば、特にリサーチ段階や最終発表段階では「どの情報を入れるか」と同じくらい「どの情報を無視するか」にも気をつけてもらえると良いものができそうな気がしている。(気がしているだけなのだが…)


こういった切り分けを上手く利用しているのが掛詞やダブル・ミーニングと呼ばれる表現手法。平たく言ってしまえばダジャレになるが、二つの文脈を切り分けて用意し、どちらでも取れるように最終的に融合させて一つの文章にするのは存外に難しい。

個人的に印象深い作品はBase Ball Bearの『PERFECT BLUE』という曲。
これだけの尺の歌詞を破綻させることなく二通りに読めるように仕上げる技術に脱帽。


②代替可能であるという性質

言葉になっているということは、多くの人が共通認識を持てている、ということである。
これは自分以外の人も理解や経験があるから成り立つことであり、この点から言葉にできるものは代替可能であると言える。

つまり、まだこの世に無いものや言葉になっていない感覚は言葉では表現しきれないのである。
そのため、まだ無いものを他者に伝えたり、説得するためには、画像や映像で表現する必要があり、そのための技術が重要になる。

身近なところで言えば、就活で使うポートフォリオはその最たるもので、自らの目指す職業で求められる力が「言葉による共通理解を進めること」なのか「新しいものを生み出し、見せられること」なのかで随分と印象の違うものになるだろう。

前者であれば、選びぬいた言葉で成果を記述することに力を入れてポートフォリオを作るべきで、後者であれば言葉よりもビジュアルに力を入れた方が良いのではないかと思う。(もちろん両方できるに越したことはないが)

おまけ

言葉って本当に大切なんですよ。ということをひしひしと感じられる本。
ジョージ・オーウェルの『動物農場』

ジョージ・オーウェルは『一九八四年』が有名ですが、読んでる途中で心が折れる人も多いと思うので、テーマ的に近いところにありながら読みやすい本書をオススメ。